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<<   作成日時 : 2008/04/09 11:13   >>

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歴史:仙台の町割の研究を進めるにあたって、どこから手を付けたらよいのか皆目見当がつかなかったため、とにかく手当たり次第にさまざまな書物を読み漁りました。すると、今まで語られてはいなかった歴史的事実がわかりました。今回はそれを箇条書きに紹介して、後日詳しく考察も含めて説明したいと思います。
その1.関が原の戦いの時、家康に大筒で脅されて東軍に加わった小早川秀秋と伊達政宗は親密な関係にあった。関が原の戦いの前に政宗公が小早川秀秋の元を訪れていた時、屋敷で働いていた若い侍に目をとめました。名は清三郎といい14歳でした。政宗公は秀秋に「ぜひとも清三郎を伊達の家臣にほしい」と頼み込んだのです。しかし、秀秋は片倉小十郎影綱と交換なら良いと話を持ちかけてきました。政宗公はあきらめるどころか影綱に相談したのです。影綱が固辞したためなかなか進展せず、結局慶長2年に政宗公は清三郎を譲り受けたのでした。現代の常識では、優秀な武士として見込んだのであろうと考えますが、政宗は無類の男色で幾多の恋文が残されています。清三郎は後の慶長5年に白石城を攻撃した際に片倉小十郎重長と共に勝手に奮戦して城壁まで攻め入りました。しかしたどり着いたのは良いのですが、そこから身動きが取れなくなって味方に助け出されたというやんちゃ者でもありました。その前年慶長4年に清三郎は石母田家に婿養子として入り、石母田大膳宗頼と名乗りのちに伊達家の家老として活躍しました。
その2.片倉小十郎影綱の子重長は、京の都に行くと公家たちに追い回されるほどの美男子であった。「東男に京女」「伊達男」のもとになったような逸話ですが、勇猛果敢な武将ぶりは、大阪夏の陣の際真田幸村の目に留まって、幸村は末を思って子供たちを重長に預けました。重長は政宗公の許可をもらって白石城までつれてきて大切に育てその中の「お梅」を後妻としました。今も白石には「六文銭」の紋所のお寺があります。
その3.豊臣秀吉が各大名に「熟瓜」を食べさせる会が催された時のことです。秀吉が突然庭に降りたため、各大名はあわてて庭に出ようとしました。各大名が素足にて追いかけた時、政宗公に従っていた草鞋取の茂庭良元は懐からわらじをすかさず差し出しました。隣に居た島津義久がそれに気づいた時、政宗公は「島津様にもわらじを差し上げよ」と命じたところ、もう一足のわらじを差し出しました。それを島津公は大変関心され後日も茂庭良元を気にかけていたようです。良元は宮城県松山町の松山城主となり、家老として活躍しました。関が原の合戦の際に西軍についた小早川秀秋と島津家が政宗公とかなり近しい関係にあったことが伺えるエピソードです。
その4.政宗公の長女五郎八姫は徳川家康の六男忠輝と結婚させられました。慶長4年に婚約して、慶長11年12月24日に結婚しました。五郎八姫はキリシタンであったことが知られています。後に忠輝と離縁させられて仙台に戻って晩年仙台の西にある蕃山北斜面に建てられた西舘に住みました。その真北にマリア像を祭ったお堂が残されています。その場所は「愛子栗生(あやしくりゅう)」隠れキリシタンの里としても知られているところです。政宗公はローマに使節を送ったりして、キリシタン信徒の力を利用して幕府転覆、天下取の野望を抱いていたようです。政宗公のなくなった翌年島原の乱が起きています。

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